20『本證寺さまから頂いたメッセージ』

SMSで、本證寺さまのメッセージを見つけました。
心に響くものがあり、コメントをさせていただいたら、
有り難いことにお返事を下さいました。
 
 
「摂取心光常照護(せっしゅしんこうじょうしょうご)」(『正信念仏偈』)
 
「月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ」
  
  これは法然聖人が作られた有名な和歌です(浄土宗の宗歌であり 上宮高校の校歌でもあります)。阿弥陀さまの光明は全てのいのちを照らしています(光明遍照十方世界)。ただ残念ながら せっかく光に照らされていても 月に背を向けて自分の影(罪業)ばかりを追いかけまわしている人には月光は届かないのと同じです。どれだけ自分の影(罪業)を追いかけまわしても 自分の力ではなくすことはできません。
 
  反対に自分の影を放っておいて月を仰ぐ時(自力を捨てて阿弥陀さまの救いを仰ぐ時)人は影(罪業)をもったままで月の光(阿弥陀さまの光明)にすっぽり摂め取られていることがわかります。どれだけ罪業が深かろうとかまわない。自らの罪業の影におびえる必要がなくなったのは 障りなく包んで下さっている月の光のおかげです(念仏衆生摂取不捨)。
 
 「摂取の心光」の「心光」とは「全ての命を摂め取って捨てないという仏の大悲心より放たれる光」です。みんな仏さまの光明(智慧・具体的には教えの言葉)に照らされて念仏者(阿弥陀さまの慈悲を喜ぶ人)に育てられていきます。ただ自らの力でさとりを開こうとする者は いまだに阿弥陀さまの救いよりも自らを当てにしているということです。それでも飽きることなく阿弥陀さまは全ての命を照らし続けます。阿弥陀さまの慈悲が届かないところはないのですから。それが「月影のいたらぬ里はなけれども」ということです。
  
  阿弥陀さまの救いにまかせきって 念仏申すということは「ながむる人の心にぞすむ」仏さまの智慧と慈悲の心から発せられる光(心光)にすでに摂め取られているということです。
 
 
本郷 京子

こーみょう へんじょー じっぽうせかい ねんぶつしゅじょう せっしゅーふしゃ〜なぁむあぁみだぁーぶー…〜

浄土宗 西山深草派の お葬儀で、必ず聞くフレーズ。
私の頭の中では こんな感じで平仮名ですけど、そういう意味なんだ〜って 今ちょっと感動してます。
最近は 気がつくと 正信念仏偈を、まるで鼻歌を歌うように 唱えている自分に気付いたりすることがあります。
まだ、完全には覚えられてないんだけど。
 
 
小山 興圓 

本郷 京子さん おはようございます。
本郷さん さすがです!仏法は毛穴から入るといいます。仏さまのはたらきが今本郷さんの中でこだましているのがよくわかります。
「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」は私たち浄土真宗や浄土宗の所依の教典『仏説観無量寿経』の一節です。特に「摂取不捨」この精神こそが浄土教(大乗仏教)の根幹です。
 
私たちの世界は「条件の世界」です(だから娑婆=我慢しなければいけない土地というのですが)。働けなければダメ 勉強ができなければダメ 健康でなければダメ・・・と何にでも条件をつけてそうでない者は全て切り捨てます。それは切り捨てる者も切り捨てられる者も共に傷ついていく世界です(切り捨てる者も条件を満たさなければすぐに切り捨てられます)。この世界が軋轢や閉塞感に満ちているのもそこに因があります。
 
さらに私たちを苦しめるのは「切り捨て切り捨てられる世界」しかないと思い込んでいることです。「それしかない」というのは逃げ場がありません。この物溢れる豊かな国「日本」で毎年3万人もの自死者が出るのは異常なことです。すべてがそうだとは言えませんが 「逃げ場がない」ことに無関係だとは思えません。
 
その閉塞感を打ち破る教えをお釈迦さまはもうすでに2500年前にお伝えくださっていました。その大乗至極の教えが「念仏」です。念仏に込められている根本精神がこの「摂取不捨」です。「念仏を称えるものを必ず救う」という阿弥陀さまのお約束(本願)は単なるお経に載っている「お話」ではありません。本来命には区別差別がないという間違いのない事実を表わしています。
 
全ての命を救うということは条件をつける世界を相対化します。条件をつけることを絶対化して苦しんでいる私たちに今も「そのままのあなたが尊いんだよ」と立ち上がる力を与えてくださいます。それが「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」です。
 
 
 

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